2008年10月27日月曜日

ゲド戦記Ⅱ こわれた腕環

ひきつづき図書館で借りて読んでいる。ゲド戦記。かなりおもしろい。

一巻の動的な世界とは変わり、闇と静寂の支配する世界。名なき者たちの支配する世界。そこは唯一絶対の世界。そこは死の世界。
名前や記憶を奪われ、すべてを失った少女の生の奪還。不変の崩壊。生きることは変化であり、何かに覆されることであり、何よりも我を変えたいという強い気持ち。何かに支配されてはいけない。信じることを疑うこと。変化という希望と自由の希求。
光りの射さない闇の世界は、それを受け入れてしまうと安住の地であり、生きながらにしての死。闇を知り、光りを志すこと。我を知り他を照らす。その勇気はかけがえのない輝きを放つであろうと。

2008年10月25日土曜日

バイト先の農場で鶏もやっている。約4000匹。鶏舎が2つ。5メートル×25メートル、5メートル×50メートルくらい。毎日3000個くらいの卵がとれているよう。農家さんの現金収入源。一度ヒビのはいった売り物にならない卵をもらったことがある。スーパーで売っているものよりも黄身の色がうすくて、ちょうど、PCCJで平飼いで飼ってた鶏の卵に似ていた。味はおいしかった。卵は近くの小学校にも配達している。

が、しかし。こんなところで飼われている。



ひとつのゲージに2羽づつぎゅうぎゅうにいれられていて、



突付きあうのか、頸や尻は羽が剥けて、傷だらけ。



僕は卵は拾わない。卵を拾うのはパートのおばちゃんたち。僕の作業は、ゲージ下の鶏糞の臭い消しにコーヒー滓をまくため、鶏舎に2週間に一度くらいはいる。その度にまる一日、どうしようもなく陰鬱な気分になる。何千匹のけたたましい泣き声とつつきあい、糞尿の臭い、鶏臭。ぼろぼろになって、ただ卵を産むためだけの命。

けっして、農家さんを告発するつもりではない。卵は貴重な現金収入源である。少しでもおいしい卵をと、飼料なども努力されていて、実際に卵はおいしいと思う。が、しかし。鶏があまりにも悲惨である。
実際の生産の現場を見るまで、スーパーで卵は平気で買っていた。なんとなく想像はしていたが、その時その時の気分で赤い卵や安い卵を選んでいた。今でも食べろと言われれば、どんな卵でも食べると思う。が、ゲージにぎゅうぎゅうずめにされ、卵を産むためだけにぼろぼろになっている鶏の命があまりにも悲しい。

スーパーに陳列される卵や肉、加工品は実際にどのようにして生産されているかを自分の目で見なきゃ、わからないし感じれなかった。ピカピカにみがかれたショーケースに陳列されているものの背後でどんな命が育まれているのか。むごたらしい現場。生産と消費の最悪の関係。それが見えない関係性の命のつながり。

正直マクロビ的観点はあまり好きじゃない。自分の健康のために食事をとることも好きではない。肉も卵もおいしいし、食べたいし、暴飲暴食もやめるつもりはない。最悪かもしれない。

が、安い値段で得た食べ物について一切文句を言うつもりはない。農薬が付着していようが、化学調味料が入っていようが、産地偽装されていようが、お金で買う食べ物、そもそも見えない関係性の食べ物の消費活動に何が言えるというのか。

命のつながりを意識した食生活。
どうすればいいかは自ずとわかりかけている。

2008年10月14日火曜日

ゲド戦記Ⅰ 影との戦い

ジブリのDVDを見てイマイチわからなくて(後で調べてみると、ジブリのゲド戦記は内容的にかなり酷評されているよう)本を読んでみることに。ゲド戦記第一巻「影との戦い」。ゲドが幼年期から魔法使いになる過程が書かれている。魔法の学校で優等生だったゲドは、そそのかされて自分の力ではコントロールできない魔法を使い、影を呼び起こしてしまう。影とは心の闇、憎しみや傲慢。そして誰もが持っているもの。影は自らが自らに作り出したもので、影と向き合い受け入れ制御することで自己の均衡が保たれる。影は恐怖と死をもたらす敵となり、また自己、人間を人間たらしめる重要な要素ともなる。誰しもが内なる自己に潜めている慢心な心と向き合うことで、より強固な均衡のとれた人間になれることを架空の物語で現実的に見事に示唆してくれる、ファンタジーならではの良書であると思う。

内なる自分と外との折衝は、二律背反しながらも関係せざるをえない自己矛盾という永遠のテーマであり、光と影がひとつの均衡としてしか存在しえないなら、影に溺れ、影を知り、影を捉えることが人生なのか。